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かける言葉を、さがさない。

こんばんは、ヤマネコです。

昨日のブログに猫のキャリーケースの写真を使ったのは、動物病院から帰宅後のお手入れをしていたからでした。

 

年明けとしては初めての動物病院。今回の受診理由は緊急を要するトラブルではなく、定期的な経過観察のようなもの。そんな理由、そしてこんな世情なのでできるだけ空いている日時を狙ってと思うのですが、病院という場所だからこそ行ってみなければ状況もわからず、それでも今回は比較的混雑を避けられたように思います。私が受付けをすませたとき、待合室にはお二方(と同行のわんにゃんたち)だけでした。診察室にはすでにご家族がいらっしゃる様子だったので、正確にはその時点で三家族がいらしてたようです。

そのタイミングでじっと観察したわけもないので後から得た情報も含めるのですが、待合室のお一方はキャリーケースの中の猫ちゃんとご一緒の女性。もうお一方も女性で、ぐったりしたわんちゃんを抱きかかえた状態で待合室のベンチに座られていました。

抱かれるのを嫌がるわけでもなく、喜んですがるわけでもなく、ただ力なく虚空を眺めるかの様子で家族の腕に身をゆだねているわんちゃんでした。そしてその子を抱いていた方のほうは、私には喜怒哀楽が抜け落ちたかのような表情にも見えました。憔悴しきっている、そんな状態だったのかもしれません。

 

一見して息が詰まりそうになったのは、三年前の自分を思い出したから。

動物病院に限らず、病院とはつらい記憶や感覚を呼び覚ます場所でもあります。一方で、とても心強い救いの場所で、私の暮らしにもなくてはならない存在となりました。それでもそのとき、私の心の弱さゆえに、その光景を見て、つらい、と思ってしまった。逃げ出したいとか、泣き出したいとか、そんな気持ちで少し離れた椅子に座って順番を待ち始めました。

 

しばらくすると、先に受診されていたご家族が帰られ、入れ違いにその抱かれたままのわんちゃんが診察室に入っていきました。私はそれを視界のすみにとらえながら、ただ祈る気持ちで自分が抱えている閉じたままのキャリーケースを見つめていたんです。見知らぬわんちゃんやそのご家族ではあるけれど、どんな子も救われてほしい。その気持ちに偽りはありません。

と、数拍おいて、隣の女性が話し始めたんです。最初はその女性の独り言か、同伴されていた猫ちゃんへの声かけかと思ったのではっきり覚えていないのですが、「大変ね」とか「つらいね」とかそういう言葉だったように思います。その後で私が話しかけられているのだと気づき、慌てて相槌を打ちました。何についての言葉だったのか、それだけは明白だったから。

 

その女性は気さくな方でした。本来ならそういう待合室では隣に座った初対面の相手とでも気軽におしゃべりできる方なのだろうなという印象。この女性に限らず、たまにそういう方と出会います。私にはなかなかハードルが高いけれど、動物病院だと猫のことを誉めていただけることも多く素直に嬉しくなるので、相手から話しかけていただけるときは心地よさも感じるのです。

ただ、件のわんちゃんが待合室にいる間は何も言葉が出なかったそう。「かける言葉が見つからない」とおっしゃっていました。

わかります。
同じでした。

 

気の利いた励ましの言葉でも伝えられたらいいのかもしれません。何か、どうにか、心の中にあるものを伝えたいと思う。

でも「大丈夫」なんて無責任なことを伝えるわけにはいかないし、「元気を出して」や「がんばって」も不適切だと感じます。「私も経験しました」なんて自分を語るべき状況でないのも明らか。逆の立場なら言ってほしくないから。平時であれば相手からのご厚意だと受け止められる言葉でも、心身が弱っているときには鋭い刃物のように突き刺さる。それも私は体験していました。

 

本当に弱っているとき、もしそばに誰かがいたら「何か言ってほしい」と思ってしまうことがあります。でもいざ何か言葉をかけられたら、それがどんなに思いやりに満ちた言葉であっても「そんなことを言われたいんじゃない」と思ってしまうこともあります。あのときの私はずっと身勝手な気持ちだけを抱えて日々を暮らしていました。

あの数ヶ月の間、誰かに言ってほしかったのは「その子の病気を治せます」の一言だけでした。何かを言ってほしいの「何か」は、その一言だけでした。

そしてその言葉は誰からももらえないことも、わかっていました。

 

私は「何を伝えていいかわからない状況」では、「何も伝えないこと」が正解なんじゃないかなと考えるようになっています。かける言葉がない、というのは、きっと最大の思いやり。今回のわんちゃんのご家族は知人ですらなかったことからその選択は当然でもあったのですが、身近な人だったとしても同じことかなと。

何を言っても傷つけることや無意味なことがわかっている状況なら、何も言わない。何か言わないと冷たい人間だと自分が詰られるとしても、それを避けるためだけに何か伝えることはしない。それは自己保身でしかない。

もちろん相手にとって意味のある言葉が紡げる立場や思考の方なら別かもしれません。物理的や、金銭的に助けることができるなら、やはり伝えると思う。あるいはすべてが終わった後に、月並みであってもねぎらいや敬意を表すこともある。

でも問題の渦中、相手の望みは明らかで、それを叶えることができないのなら、「何か伝えたい」という想いだけで伝えるのは自己満足なのだろうなと。

 

あの後、そのわんちゃんはひとまず入院となったのか、連れのご家族はお一人で足早に待合室を通り過ぎていかれました。私と、もうお一方の猫ちゃん連れの女性も押し黙って見送りました。

そして私は病院を出ての帰路から今まで、そのことをずっと考えています。私は私の選択で「かける言葉」をさがすのはやめたつもりでいるけれど、心のどこかではその言葉が見つかることを願っています。

 

昨日のつづきの猫。

ケースに入ったまま出てこない弟猫を心配して、ちょくちょく覗きにくるお兄ちゃん。

でも大丈夫。その子は自分から入っていったので。

キャリーケースは動物病院用、みたいなことにならないよう、日常的にリビングでベッド代わりに開放しています。

とはいえ、そもそも病院のお世話にならずにすむのが望ましいので、どうかできるだけ元気でいてくださいと猫たちにはハードルの高いお願いをし続けています。

本日もおつきあい、ありがとうございました。



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