こんばんは、ヤマネコです。
先日のカレンダーを眺めていたら、今日は「女性の日」と書かれていました。
女性を表現する言葉にも色々ありますが、最近ずっと考えていたことを含めて、「母親」について書かせてください。
私は本当の意味で、母親にはなれない。
母親にはならない。
初めてそう認識したのは、十代の頃だったと思います。
その言葉に含むのは、愛する人と結ばれ、自分の身に授かった命と十月十日すごし、この世に新たな生をもたらすこと、というだけの意味です。
今思えば、母親になる方法には色々な過程や形があったのですが、当時そこまで深くは考えませんでした。
正直、若さゆえか突きつけられた事実もさほどショックではなかったし、一部の友人たちのように「お母さんになるのが夢」といった強い想いがあったわけでもなく、母親になれなくても別にいいかと楽観的でした。幸せの形は色々あるのだし、こんな立場におかれたのが私みたいな考え方をする人間でよかった、と思う気持ちすらありました。
そんな考えを変わらず持ち続けたまま数年経った頃、ある猫に出会いました。
初夏、あじさいの季節でした。
雨の日でした。
ひざよりも高く雑草がしげる空き地の奥のほうから、消え入りそうな「ニィ、ニィ」という声が、私の耳に届いたのです。
じきに日暮れ時という薄暗い藪沢。それも雨の日。そんな空間にはたくさんの虫がひそんでいそうで、私はめったに近寄りません。でもそのときは何かに突き動かされるように、生いしげる草木の中に足を踏み入れ、声をたよりに十メートルほどをひたすら前進していました。
ところが声の元が目前に迫っても、草丈が高すぎてその姿はほとんど見えません。でも、そのときには「この声は猫だ」という確信がもちろんあって、繁茂の中にただ腕をつっこみました。
そしてようやく指先にふれたのは、しっとりと濡れた毛のかたまり。
冷え切った身体で、もぞもぞと必死に動く、生まれて間もない子猫。軽々と片手にのる、小さな命でした。
その子を抱えたまま再び元の開けた場所へ戻り、安堵した瞬間に聴こえたのは、背後からの新たな声。
まだ、いる。
結局もう一度同じことをくり返し、そうして迎えたのが(おそらく)兄弟子猫たちでした。
ちがう子猫たちの写真です。
当時のわが家には既に猫がいて、私は自他ともに認める猫好き。それでも人間と同じく「赤ちゃん」という存在のかわいさは格別なもので、びしょぬれでも、どろんこでも、その兄弟子猫にメロメロでした。
本来なら実家暮らしの未成年に決定権などないけれど、どんなことがあってもこの子たちと暮らすのだと、その瞬間には決めていたのです。
その日、かかりつけの獣医さんに駆けこむ前に、彼らの汚れをぬぐったりミルクをのませたりもしたのですが、薄汚れていても元気そうに見える兄弟にほっと胸をなでおろしました。
けれど、そのあとに待っていたのは残酷な告知。
結論だけ言えば、それからほどなくして、子猫は独りになりました。
その一件が起こる以前から、わが家には猫がいました。
当時は私自身が子どもだったこともあり、猫たちを育てているのは「私の親」だという認識だったように思います。簡単に言えば、それまでの猫たちは私にとって「兄弟」のような存在。私にも懐いてくれてはいたけれど、それ以上に私の親を慕っているように見えました。
ただあの雨の日、藪の中から拾い上げたその子は、私がミルクをあげ、トイレの世話をし、バイト代でごはんを買って食べさせました。それに応えるように、その子はいつも私に寄り添ってくれました。当初の私は、兄弟の片割れを救ってあげられなかった負い目から行動していた気がするのですが、それ以上に、その子への愛情を持つようになっていきました。
日に日に猫らしく育つ背中をなで、大好きだと抱きしめ、時にはくっついて眠り、その子からも少なからず私への好意を感じ始めた頃、気づいたことがありました。
この子は、私を「お母さん」にしてくれたんだ、と。
私は母親になれなくてもいいと思っていました。
仕方がないことだと、割り切っていました。
別段ショックではないと思っていました。
でも、お母さんにしてもらえることがこんなに幸せだということを、この子が教えてくれた。
この半年、闘病している猫たちの中に、その子がいます。当然ながらそれぞれの子たちを心配していますが、注意しながら長くつきあう必要のある病気がほとんどで、食事や生活改善でケアしてあげることができるのです。
彼らを病気にしてしまったことを申し訳なく思うけれど、私にもしてあげられることがある、ということだけは救いです。
ところが、件の子の病気について受けたのは、完治は見こめないとの説明でした。
そして今。
治らない、と言われているのに、治療をやめることができません。
あきらめることができません。
(先生と相談の上、この子の身体にとって辛くない選択だけはしているつもりです)
たくさんの猫たちと出会い、暮らし、別れも経験してきました。ともに生きる猫たちのことは分け隔てなく愛しているつもりなのだけれど、今、どうにもできない感情を持て余しています。
所詮、猫の話です。
それで親子だなんて馬鹿げているかもしれません。
でもこの感情は紛れもなく、いとし子に向けるそれと一寸の違いもないのだと、私は思う。そしてあれから数の増えたわが子たちのために、できることは何でもしようと決めています。
毎日、奇跡は起こると信じながら。
本日もおつきあい、ありがとうございました。
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