こんばんは、ヤマネコです。
一週間ほどプチデジタルデトックスをしていました。
もともとスマホを持っていないので、私にとってのネット時間=パソコンの前にいる時間です。これを意識して減らした一週間は、少し心穏やかに過ごせたように思います。
それを始めたのも、間接的ですが熊本の震災がきっかけでした。
先月の後半、震災発生からずっと、得体のしれない焦燥感に駆られていました。「何かしなきゃ」という想いです。その「何か」がなんだかわからなくて、一人でずっと焦っていました。
自分なりに思いつく限りの「できること」はしたと思います。といってもわずかばかりの寄付や、自宅での備え見直しなど。問題はそのあとで、まだ何かできることがあるんじゃないか?、そればかりが頭の中をぐるぐる回り続けていたんです。
極端な話、被災されて大変な人たちがいるのに私ばかり幸せになってはいけない、と思ったり、逆にこの程度のストレスで不幸だと感じてはいけない(幸せだと思わなければいけない)、と思ったり。笑っていいのか泣いていいのか分からない、普段の生活の中で突然そんなスイッチが入っては、頭の中が真っ白…というか、真っ黒になっていました。
そんな折、こちらのイシゲスズコさんの記事を拝読して、私の中で淀んでいたものが静かに澄んでいくのを感じたのです。
ああそうか、「何もしない」ことで「迷惑をかけない」という支援の仕方もあったんだ、と。
何もしないというのは、見て見ぬふりをする、という話ではなくて、「余計なことは何もしない」です。余計なこと、余分なこと、過剰なことは、しない。貴重な物資も余らせてしまったらゴミになって迷惑をかけるので、それくらいなら送らない(無駄に持たせない)。
今思えば私の中の「何かしたい」は軽薄な同情心のようなもので、「やっておけば自分が満足できる」という自己陶酔だったのだと気づき、とても恥ずかしくなりました。
「何かできることがあればしたい」という気持ち自体は悪いことではないと今も思っています。ただ行き過ぎた親切は押し売りであり、迷惑になる可能性がある。それこそ、忘れてはいけないこと。
無為に自己満足に走るくらいなら、自分が「今」できることはした、と思えたあとは、普段どおりの生活をする。得体のしれない気持ちを抱えて落ち込み続け、万が一仕事に支障をきたすようなことになっては何の実もありません。ちゃんと仕事をして、ストレス発散もして、笑って、収入を得て、必要となれば募金するほうがよほど合理的。そうして普段どおり生活する中で、自然と「できること」が見えてきたときに行動すればよいのであって、何も無理して「今すぐ何かしなければ」と悩む必要はなかったのだと思います。
改めて、今は「普段の生活を続ける」という支援方法を始めました。
冒頭の話に戻りますが、ここ数日は「ネット時間を短縮する」というプチデジタルデトックスをしていました。先月末は仕事の合間を縫って「何かできること」を探しては薄暗い気持ちでネットサーフィンをし続けていたので、心身ともに疲れもひどくて…それをリセットしようと思っての試みです。
十分リフレッシュできたので、また笑って、泣いて、ちゃんと自分の生活をしよう。無理なできること探しはもうやめて、「今できること」に全力投球します。
本日の猫と、ハンモック。相変わらず猫自身が「自分で乗る」はできないハンモックですが…
乗せてあげると、降りたがりません。良い昼寝スポット。
ちょっとびっくりしすぎです。
本日もおつきあい、ありがとうございました。
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