こんばんは、ヤマネコです。
少し前にSNSで話題になっていた好き嫌いの話、私にも身に覚えがありました。
SNSで見かけたのは、用意された食事を「食べられない」と拒否するのはただのわがままなのでは? という内容でした。
その状況に対する賛否を述べるつもりはないのですが、私はなんらかの食材に対し「食べられない」という感覚を理解できます。逆に、好き嫌いがない人にはこういう感覚への理解が難しいのかな? とそのとき気がつきました。
たとえばピーマン。
私にとっては大好きな食材です。ただ苦手な人がいるのも、その理由もなんとなく理解できます。とくにお子さんに多いのかなと。そして食べてほしいと願う親御さんの気持ちもわかつるもりです。
そのうえで、がんばれば食べられる子もいる。
ただ、どうしても食べられない子もいるのだろうなと。
それはわがままではなく、食べられない。なぜなら本人にとって、それは食べるものではないから。少なくとも私がそうでした。
たとえば道端に生えているような名無しの草。毒草でもないけれど、薬草や食用ではないはずの雑草。
多くの人にとって、普段見かけるそれは食べ物ではないと思います。ただし仮に何日も食事をしていないような飢餓状態で同じ草を見たとき、なんとかして食べる方法を模索することがあるかもしれません。そういう状況なので調味料などもなく、かろうじて用意した水と火で、湯がいて食べてみる。
先人が食べ物としては認識しなかった草です。きっとおいしくもなく、えぐみや苦味が強いかもしれない。それをすんなり呑みこめる人もいるのだろうけれど、精神的に、生理的に拒否反応を示してしまう人も多いと思う。なんとか口に入れても喉を通らないかもしれません。
私にとって嫌いなものを食べなければいけないというのは、そんな状況に似ています。
ピーマンは多くの人にとって食材という認識のはず。でも、それを嫌う人にとってはきっと食べ物ではない感覚なのかなと。
私の場合は他の食材ですが、それを前にしたとき、香りが苦痛、過去の記憶が影響して口にも入れたくない、なんとか入れても呑みこむのに相当な覚悟が必要、全身が拒否していると感じる。
それでも食べなさい、拒むのはわがままだ、と言われる。
それが恐ろしいことだと理解してもらうのは難しい、というのをあまり考えたことがありませんでした。誰にでも一つや二つはそういうレベルの好き嫌いはあると思っていたから。でも多くの人にとってはそこまで拒絶するような食材は持ち得ないのかもしれない、と最近ようやく気がついたところです。
食以外の分野でも好き嫌いにはそれぞれ程度があると思います。人によって大きく差があるだろう部分。克服の余地がある食わず嫌いと、嫌悪と呼べるほどの差がある場合、気づかずに会話を続ければこじれてしまいます。その齟齬に私自身が気づいていませんでした。
そして相手からの「苦手」という控えめな拒絶に対し、「ちょっとだけ試してみて」と伝えること。後者の立場に私が立つこともありました。
強引な伝え方はしていないつもりだったけれど、自分とは程度の違うレベルの苦手だったのかもしれない。大いに反省する部分がありました。改めてそれを念頭に置き、人と接しようと思います。
本日の猫。
こちらは百円ショップで購入したシリコン製の水ふうせん。弟猫が喜ぶかなと……
思ったのですが、見向きもされず。
毛嫌いされるほどではないけれど、おもちゃとしては認識されませんでした。
猫への押しつけもしないよう気をつけようと思います。
本日もおつきあい、ありがとうございました。
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