こんばんは、ヤマネコです。
あるとき、当時のバイト先で「祖父母の名前」の話題になりました。
その前の話題は、いわゆるキラキラネームについてだったと思います。誰かが「こんな珍しい名前があるらしい」と言っては、みんなで笑う。そんな流れ。
私も一緒になって笑いました。
まぎれもなく、嘲笑でした。
ひとしきりキラキラネームについて嘲り尽くした頃、次のやり玉に挙げられたのが、祖父母の名前でした。
年代ごとに名前の傾向というのはあると思うのだけれど、祖父母の世代も「最近」とは違う独特さを感じます。それを、笑う。
誰が始めたのか「うちのおじいちゃんは○○だよ」と言ってはみんなで笑い、「うちはね…」と誰かが続く。その場には十人ほどバイト仲間(上司含む)がいましたが、いつの間にか時計まわりで、自分の祖父母の名前を告白する流れができあがっていました。
みんなで、笑うために。
私はそのとき、もう笑えませんでした。
自分の祖父母の名前を笑われるなんて、心底嫌だった。
でもそんなことを言いだせば場が白けるだろうし、みんながどんな反応をするかの想像もできました。だからと言ってうまく流すスキルもなかったので、空気を悪くするくらいならサラっと済ませてしまったほうが、おそらく誰かの記憶に残ることもないだろう…とも思いました。
でもその一瞬が、耐えられそうになかった。
ただのノリじゃないか。
何をそんなに深刻になっているんだ。
きっと普通はそう考えるのだろうけれど(私も他人事だったらそう思う)、そのときは想像するだけで、なんだか悲しくて仕方がなかったんです。
結局私は自分の順番が回ってくる直前「トイレにこもる」という方法でその場を切り抜け(?)ました。
しばらくこもり続けたので違う意味で恥ずかしかったのですが、それ以上に、祖父母の名前を笑われるのが嫌だったんです。
名前を、というよりは、大事な人のことを笑われるのに我慢ができません。血縁に限らず、友達であっても、仕事仲間であっても、今ならブロ友さんやネット交流だけの方であっても、その人の名前や容姿などを「嘲る」というのを甘受できない。
その人にまつわる面白い逸話があって、それを自ら聞かせて笑ってもらうのとは違う。行動や言動に対して褒めたり愚痴ったりして、それに共感しあうのとも、また違う。
嘲るというのは、全然違う。
それを考えると「キラキラネーム」を揶揄できてしまったのは、身近にイメージできる「誰か(キラキラネームを持つ実在の人物)」がいなかったからなのだと気がつきました。当時の私にとっては漫画や小説の世界の話のようで、短絡的に面白いかどうかで判断してしまった。想像力が欠落していたんだろうなと。
今でも時々新境地の命名を耳にしてはびっくりすることがあるけれど、誰かが愛情をこめて称えた名前に難癖をつけるのは、もうやめる。
私は悪意のない笑いにも、のれないことがある。
別の見方をすればただの「ノリが悪い人」だとは思うけれど、自分の中のその一面を、これからも捨てずに、大事にしていこうと思っています。
翌日の補足。
最初に更新した際、肝心なことをを書き添えるのを忘れてしまいました。
あのときあの場にいた仕事仲間たちは、時々悪ノリすることはあったけれど決して悪い人たちではなく、職場の環境もとてもよかったです。
本日、送り日。
日暮れ直前におがらを焚いて、ゆっくり送り出しました。
たぶん猫たち…帰ってきてたんじゃないかなと思うんです。ここ数日、私の猫アレルギーがひどかったので。
そして彼は、今日も今日とて、布に乗る。雑巾なんですけど。
本日もおつきあい、ありがとうございました。
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