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家族とすすむ「持たない暮らし」の失敗

こんばんは、ヤマネコです。

私は家族(人と猫)と一緒に暮らしています。ミニマリストではないけれど、できる範囲で「持たない(持ちすぎない)暮らし」を目指してきました。そんな中で思い出す大きな失敗が二つあります。

最初の失敗は話し合い不足

ものを整理し始める前に、家族の中で「どんな暮らしをしたいのか?」を確認しあうことは大切でした。私は当初、これをせずに「減らそう」と思い立ち始めてしまったから、途中で何度かイライラしました。でもそれは家族がいるのにも関わらず、暮らし方を強制的に方向転換させようとした私の自己中心さが引き起こした結果。

今なら、そんなことをしたら落ち着かない人もいると理解できます。特定のものがなくても問題ないかどうか…ではなくて、私が「すっきり」と感じる空間を「寂しい」「つまらない」と感じる人だっているということ。そして一番身近な家族が、ものにあふれた暮らしを「落ち着く」と感じるなら、バランスをとらなければ共には暮らせません。それを失念していたのが、私の最初の失敗です。

その後

幸いにも、うちの家族間で「求める暮らし」がほぼ一致。「ほぼ」と言うのは、私は少し「足りない」くらいでもいいけれど、家族にとって不便がないように、「余裕」が必要ということ。

私が一人で突っ走らなければ、理想の暮らしに近づくことは可能だと感じています。

更なる失敗は勝手な評価

「使ってないけど、これ必要?」
「埃かぶってるから、捨ててもいい?」
「似たものあるし、二つもいらないよね?」

…と「家族の持ち物」に対して、私の下した主観評価が次の失敗でした。人が何をどんなふうに愛するかは見て量れるものでのではなかったのに、前述のイライラも手伝い、呆れた口調で言い放っていました。これは本当に失敗…というより、大失態。イライラは伝染するばかりでした。

評価を求められている場合や、まだ手に入れる前の段階であれば、他の選択肢を挙げるなど自分の気持ちは伝えます。でも最終評価は、持ち主だけがすればよいことでした。

その後

「捨ててほしい」という勝手な理想をぶつける代わりに、「寄付する(或いは、売る)ついでがあるんだけど、何かあれば出しておいて」とお願いすることが増えました。そして実際、「何か出して」とお願いするたび何か出てきます。

おそらくうちの家族は皆「捨てる」が苦手。しかも他人から強要されるなんて腹立たしいことこの上なかったはず。「捨ててほしい」は、相手の持ち物も気持ちも踏みにじった言葉だったと反省しています。

まずは自分が動く

今日の記事を書きながら、みうさんのこちらの記事を思い出しました。

シンプルな暮らしも、自分がどんなに「いい!」「こうしたい!」と思ったものでも、まずは人を巻き込まず、自分だけで動き始めればいい。

私は今、家族との共有品(食器や寝具、シャンプーなど)を減らしたり、選びなおしたりを自由にさせてもらっています。自分の持ち物(衣類や書籍)も積極的に整理しています。家族はそんな私を見てなのか、同じ「理想の暮らし」に向けて、一緒に動いてくれるようになりました。

本当なら、持ち物の整理や片づけは、誰かに指図されてやるものではなく、自分がしたいと思ったときにすること。

そう感じたときに行動しやすい環境をつくっておくことが、家族の持ち物整理において、私にできる唯一のことかもしれません。

 

本日の猫。

どんな状況であっても…

どんな環境であっても…

彼はカゴが大好きです。
(十年くらい前のニトリのカゴの頑丈さに感動)