こんばんは、ヤマネコです。
先日も書きましたが、常に幸せでありたいと思っています。
小学生の頃に読んだ仏教の本で「誰かに感謝されたいのが、親切」であり「役に立てたことに感謝するのが、布施の心」だと書かれていました。前者は他人の行動によって得られる満足、後者は自分の行いから得られる満足です。
たとえば、前を歩いていた人が落とした財布を拾い、追いかけて渡したときに、「感謝してもらいたいのが、親切」で、「良い行いをさせてもらえたと感謝するのが、布施の心」。どちらも同じよいことをしたのには変わらないのですが、仮に相手が無言で受け取って去って行ったとしても、布施の心を持っていれば「渡せたこと」で完結しているので、相手の態度に関わらずモヤモヤは残りません。
読んだのが昔すぎて本のタイトルや著者なども分からないし、子供の頃の解釈なので曖昧な部分もあるかもしれません。でもなぜか一度読んだだけのこのテーマがずっと心に残っていて、いつしか「布施の心」を持ちたいと考えるようになりました。
たぶんこれって、幸せになる方法のひとつだから。
「させてもらえた」と感謝するのは少しハードルが高いのだけど、「できた」と満足することは私にも可能でした。
手のこんだ料理じゃないけど、毎日つくれている自分。すごい。
掃除できる自分、そこそこよい状態を保てている自分。えらい。
猫の世話を続けている自分。幸せ。
自分、自分と、うるさいくらい自分推しで、要するに自己満足ですが、他人の思考は関係ないので毎日のように満足感が得られます。
前は誰かに褒めてもらいたい、感謝してもらいたいと思い、それが前提で行動していました。…いえ、今もどこかで思っていますが、その前に一つ、自分の満足ポイントをつくっておく。表現は悪いですが、褒めてもらえるとか感謝してもらえるのはおまけです。
私が行動できたことが嬉しい。そう決めた。
…と書きながらも、これが難しくて。未だに私は何かしたことに対して感謝されたいと思う気持ちが心の底にあります。料理や掃除などのルーチンワークに関しては「できた」という喜びで満足できるのだけど、財布を拾って届けたのに無言だったら…「なんで?」って思ってしまうだろうなと。お礼くらい言ってほしい、と。
でもそういう場面に出くわしたら、この人はお礼を言ってくれなさそうだな…と察することができたとしても(?)きっと見て見ぬふりはできないので、「落としましたよ!」と叫ぶなり、財布を投げつけるなりして逃げてしまえたらいいのですが、なかなかそうもいきません。
財布の例でなくても、電車で席を譲るか否か、混雑するレジでおつりが1円多いことを申告するか否か…迷うシーンは色々。そんなときは「今、私いいことする!してる!」という考えと、相手がどう出てきても気にしない強い心を持って声をかけることに。誰かの感情に振り回されたり、素通りした罪悪感を抱えるよりも、やりたいことをやった、という自分の行動に満足したいから。
ブログも、時々メールやメッセージをいただいたり、リンクしていただいたり、そもそも読んでくださる方が居る、と感じられるのがとてもうれしいのですが、まずは自分が毎日書けることを幸せに思います。
本日の猫。
「財布落としましたよ!」と叫び…
全力で逃げる。こんなイメージです。
本日もおつきあい、ありがとうございました。
こちらからお帰りいただけると、心の支えになります。
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