こんばんは、ヤマネコです。
自分でも驚くほど穏やかな気持ちで新年度を迎えました。
あいかわらず仕事の慌ただしさは続いているし、年度替わり特有の気忙しさはあるのだけれど、三年前の今の時期に体験した愛猫との別れから、ずっと抱えていたやり場のない感情が、それを収めている心が、年々少しずつ軽くなっているような気がします。
でも、今、前を向き始めた自分のことを薄情だと蔑むような感覚も、自分の中にはあるんです。
何かの物語のように、己の中に異なる感情を持つ人間が何人も存在していて、それぞれが個性豊かに絶望したり、励ましたり、怒ったり、泣き叫んだり、全部なかったことにしてしまいたいという空虚さを持て余していたり、その全ての選択肢に納得がいかずヒステリーを起していたり、そんなふうな葛藤を毎日毎日くり返している。
そんな中で、笑って生きていきたいと思い始めた自分と、こんなにあっさり立ち直ろうとしている己の一面を軽蔑せずにいられない自分がいる。もうずっと私の中で様々な感情が渦巻いています。
これが他人の話なら、後者の思考は間違っていて、幸せに生きようとすることこそが正しいのだと助言するかもしれません。悲しみに明け暮れて生きるなんてもったいないし、最悪の選択をする気でいるならもってのほかだと、前向きさこそ正義のように語っていたかもしれない。
でも自分のことだから私はどちらの私も受け入れずにはいられませんでした。そうすることが、結果的に生きる支えのようにもなっていたように思います。
心置きなく悲しんでいい。
無理に笑わなくていい。
好きなものだけでも食べればいい。
ネガティブになってもいい。
好きなだけ吐き出していい。
思い出に浸っていてもいい。
目をそらしてもいい。
泣いていい。
苦しんでいい。
ずっとさみしいのは当たり前。
前でも上でも見られるときに見ればいい。
どんなに駄々をこねても変わらない現実には耐えなくてはいけなかったけれど、自分の感情まで押し殺す必要はなかった。
私には、今もまだ悲しくてつらくて仕方がなくて、このまま生き続けることを怖いと思うときがあります。それはこの三年間、こんなふうに自分を甘やかしすぎたからかもしれません。
でもあの当時、もうすべて終わらせてしまいたいとすら願い、沈みきっていた心が、四年足らずでここまで浮上しているのは、痛みや苦しみを無理に手放そうとしなかったからかもしれません。
いくつもの人生を経験することはできないし、あのとき別の選択をしていた場合の結果を見ることはできないけれど、この三年間持ち続けてきた感情や考え方も私にとっては正解の道でした。
そして、自分以外の誰かが落ちこんだり悲しんだりしているときには励ましの言葉をかけることもあるのだけれど、その前に好きなだけ落ちこんでいいということを、私自身が忘れずにいようと心掛けていきます。
同じく心掛けていきたいこと。
- 過去記事:かける言葉を、さがさない。
本日の猫写真はおやすみさせてください。