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他人と、あわせたいこと。

こんばんは、ヤマネコです。

だいぶ前のことなのですが、人間関係の中で一番大切なことは何か? という話をしていました。

一番、といっても人それぞれの答えがあること。自分にとっての一番という意味です。

きっかけは、当時婚活をしていた友人が、パートナーに求める条件にはどんなものがあるか? という話を始めたこと。数人の女友達と一緒に恋バナ感覚で話題にしました。

本音から建て前まで色々とあると思うのだけれど、私はその後も個人的に、ことあるごとに条件について考えていたんです。当時の話では結婚相手に求める条件だったけれど、友人、仕事相手、ご近所さん、あらゆる人間関係においてどんなものが大切かなと。

結果、今の私の中で一番大切なのは「倫理観が近いこと」だと考えるようになりました。ものごとに対する考え方なので、価値観とも呼べるかもしれません。

 

最近とある映画(数年前の作品)を観ました。

主人公が悪いことをし、それに巻きこまれた相手が怒って復讐を始めるという内容のもの。相手が行動を起こす前、主人公に謝罪の機会を与えるのだけれど、それに対して主人公は人を馬鹿にするような態度で相手を貶めました。迷惑をかけたのはたしかなのに、そんなことで怒るなんて馬鹿ばかしい、と。その映画の結末で主人公は報復されてしまいます(実際にはにおわせで終わりました)。

本編の中で、主人公は逃げ惑い、抵抗をします。でも私はこの主人公には最後まで感情移入できませんでした。報復内容が過激すぎたので複雑ではあったけれど、ことの発端を見る限り相手が怒るのも当然の流れだと思ったから。

他人を怒らせてしまう事態は誰にでもありうること。
でもその後に開き直ったり、ましてや相手を貶めるのは許しがたいこと。

私はそう思っています。

 

映画の視聴後にレビュー欄を見たら、意見が真っ二つ。私と同じように思いながら、ある意味では主人公の自業自得ですっきりのラストだと感じた方もいれば、主人公の行いは大したことではないのに怒って復讐するなんてとんでもないというご意見の方もいました。

たしかに始まりは些細なことでした。でも主人公の横柄さや身勝手さを随所で感じ、反省の意思も見られないまま物語が進んでいったので、私は心の中で相手(悪役?)を応援し始め、フィクションとしては致し方なしのラストだったなという感想です。

(現実世界であれば話は変わります)

 

そうして冒頭の話に戻るのですが、人間関係の条件として大切にしたいこと。それが私にとっては、倫理観の近さ。

常に同じでなくてもいいんです。常に逆だと、疲れてしまう。

明らかに悪いことをしながら自分が許されないのはおかしいと主張するとか。
自分より立場の弱い人間に対し、常に横柄であるとか。
自分が嫌いなものに対し、求められていない不満をぶつけずにはいられないとか。

件の映画であれば、主人公は自分の非を認めず、都合の良い正しさだけを主張し、おそらく下に見ていた相手に対し貶めるような言葉をぶつけ、その相手のことを仲間内(相手がいない場所)でも笑いものにしていました。

誰にとっても思考は自由。でも現実世界のこういう場面で、私自身が一緒に笑わなければいけない空気になったり、仮に私が反論したとして頭ごなしに馬鹿ばかしいと一蹴されたりするのはとてもつらいし、怖いこと。

 

趣味や好みがあうことも大切。でもそれは人間関係における必須条件ではありません。自分にとって未知の世界であっても寄り添うことはできます。友人が好きなものに対しては私もふれてみたいと思うことが多いから。

でも真逆の倫理的を持つ人に寄り添っていくのは私にとって難しいこと。

必要となれば努力はするけれど、できればそこだけは同じ人、より近い人のほうが心穏やかにつきあっていける。できるだけそういう選択をしていきたいです。

 

本日の猫。

法律上、猫は「もの」と見なされます。

普段からそれに対して強い不快感はなく、単純に事実であると受け止めています。

ただ他人から「猫なんかモノだから」とか「代わりはいくらでも」という扱いをされたらすごく嫌なのです。それを口にしても問題ない、と思われてしまうことが怖い。これも私にとっては価値観の違いであり、倫理観の差。

人それぞれ持つ感覚なので、相手を否定するのではなく、自分から距離を置くという形で心を整えていきたいです。

本日もおつきあい、ありがとうございました。



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