未熟いちじくのワイン煮と、最期に向けて。

こんばんは、ヤマネコです。

少し前のお墓参りの帰路、産直市場で「未熟イチジク」というものを買いました。

実は栗のように小ぶりでやや硬く、色は青く。どうやって食べるものかと眺めていたら、お店の方が「ワイン煮にするとおいしい」と教えてくださいました。それならやってみようかなと。

相当硬い実だと重曹でのあく抜きが必要だそうですが、今回購入したものについては「一度のゆでこぼし」でよいとのこと。

聞いたまま赤ワインに甜菜糖を加えて煮、一晩おいたらできあがり。

赤ワインは知人宅の納戸から発掘した古いものを使わせてもらい(腐敗は免れているようだったので)、出費はイチジク一袋分、500円ですみました。

なんだかアルコールが残っているような気もするのですが(そう感じるのは私が下戸すぎるから?)、友人たちにもシェアさせてもらいつつ、わが家でもゆっくり堪能しようと思います。

 

このイチジクを手に入れたお墓参りの日、年の離れた身内から言われたのが、

「死ぬなら元気なうちがいいね」

という言葉。何気なく墓誌に刻まれた名前と年齢を目で追いながら、その人たちの晩年について話していたときのことでした。

 

自分のことが自分でできるうちに。
杖が必要となっても独りで歩けるうちに。
せめて寝たきりになる前に。
頭がしっかりしているうちに。
同年代の友人たちより、先に。

自分はこんなタイミングで終えたい、と。

そんな言葉を、よく聞くのです。
一人や二人ではない、いろんな人から。

それに対して私は、めったなことを言わないでほしい、と思っているし、理解も共感もできる、とも思う。誰しもいずれは泉下の客となるのだし、当然私もそう。そのとき自分自身の行く末についてはきっと同じように願う。誰かに大変な負担をかけながら生き永らえるなんて断固拒否に違いない。

ただ現状では立場(年齢)が違うなどで「そうだね」とは同意しにくい場合もあって、そういうときに何と応えるのが正解かわからないのです。

 

知っておいてほしいのは、あなたが生きていてくれるだけでいい、と願う人がいるかもしれないこと。

それは連れ合いかもしれないし、自分の子どもかもしれないし、長く会わずともつながり続けていた友人かもしれない。ふだん憎まれ口をたたきあう間柄だったとしても、いなくならないでほしいと願う人がいるかもしれない。壮絶な介護の日々に家族が「早く終わってほしい」と求めてしまう瞬間だってあるかもしれないけれど、追い詰められて生まれた感情と、もっと深いところで育まれていた愛情は別物なのだと思う。

だから残りの人生をどう終わらせるかより、どう生きるかを考えてほしい。

 

なんて説教じみたことまで目上の人に言えるわけもないのですが、いつか自分が同じ立場になったとき、そう考えられるようになっていたらいいなあとは思います。どう長生きするか、ではなくて、どう死ぬか、でもなくて、どんなふうに日々をつづっていきたいか……実際にそうなったらあれこれ考える余裕などなくなってしまうのかもしれないけど。

だからこそ今の私にできるのは、いっしょに時間をすごせて幸せだ、と相手に伝えること。それだけは続けていこうと思います。

 

本日の猫。

見てください、私の寝床にリトルニャーメイドが!

人魚ならぬ、ニャン魚とも呼ばれています(私に)。

勝手に遊ばれているとも知らずに、今日も寝坊助な猫でした。

彼とすごす時間も、すごく幸せです。

本日もおつきあい、ありがとうございました。



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