こんばんは、ヤマネコです。
ブログで父親のことを書いた記憶がほとんどありません。
それは父とともにすごした時間が少なかったからだと思います。
といっても十代後半までは同じ屋根の下で暮らしていたし、その間ずっと仲が悪かったわけでもありません。それでも私は、父と共有した時間がとても少なかったんです。
抱っことかおんぶとか、してもらった記憶がない。
手をつないでもらった記憶もない。
運動会や発表会に来てもらった記憶もない。
一緒に休日をすごしたような記憶も、ほとんどない。
日常的な、些細な記憶の中には「父親」という存在がほとんどいません。
それでいて時々(今思えば)私がバカなことをしでかしたときに、父の落とすカミナリが壮絶だったのは覚えています。
ふだんの父は口数が多いわけではなかったし、ハッキリ言って何を考えているかわからない人。頑固、とはまた少し違う印象の威圧感があって、幼少期に感じ始めた父との距離を縮めることができないまま、十代の私が抱いていたのは恐怖心に近いものでした。
父の厳格さというか、言葉数や表情の少なさゆえに感じた冷徹さというか、えも言われぬ畏怖の想いに近寄りがたく、なおのこと溝ができていたように思います。
父親が身近な存在に感じられなかった、子ども時代。
不思議なことに歳を重ねるにつれ、当時の記憶を少しずつ思い出すようになりました。これまでまったく、それどころか記憶の断片すら思い返すこともなかった、やさしい父の記憶です。
私の元へは毎年欠かさずサンタクロースが来ていたこと。
父の日に贈ったふつうのボールペン一本を、後生大事に(隠して)とっておいてくれたこと。
病気がちだった私が強いられていた入院生活の中、父が見舞ってくれた日は数えるほどしかなかったけれど、それがとてもうれしかったこと。
私が決意したやりたいことや進路に対して、一度も反対されなかったこと。
今だからわかる、色々なわがままを許してもらえていたこと。
それからこれは聞いた話ですが、昔はヘビースモーカーだった父が、私が生まれたのをきっかけに禁煙を始めたそうです。最初は自宅に持ちこまないことを徹底し、私が物心ついた頃には外でもほとんど吸わなくなっていた。
母からそれを聞いたときは「へー」と思うだけでしたが、大人になって身近に喫煙者のいる環境も増え、禁煙の大変さを理解するようになってからようやく、私、愛されていたんじゃないかと気づいたのです。
(私が喫煙者に対して悪い印象を持たないのは、父のおかげでもあるのかも)
面と向かってかけてもらった言葉や、手を差し伸べてもらった記憶がない代わりに、見えない場所で強くサポートしてもらっていたことを、今は確信できます。
きっと、不器用な人だったんだろうなと。
なんだか私、そこ、似ちゃってる気がするなと。
そんな想いを馳せながら、今年は照れと苦笑まじりの父の日をすごしていました。
本日の猫。
猫たちの時間は早くすぎ、人間年齢に換算すると今やほとんどが私より年上。
というわけで(?)彼らにも父の日の贈り物、と称しておやつを献上しました。
このキラキラとした瞳は、それを見つめる期待の色です。
……まだまだ君らは子どもだなあ。
本日もおつきあい、ありがとうございました。
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